あくむてゃん

いっしょに、こわいゆめ、みる?

「虫を殺すのと人を殺すのってどう違うの」

はじめまして。ここでの名前は悪夢ちゃんと言います。ちゃんと"悪夢ちゃん"でそのまま呼んでくださいね。よろしくお願いします。
なぜ悪夢ちゃんかって、悪夢をよく見るからです。と言っても最近は見なくなったけど。

なぜ私が悪夢をよく見たのか。このブログは、その理由とその根本を分析したり探求したいブログです。とはいえ夢の話はあまりしません。私の悪夢には明確な理由があったからです。

つい先日、新幹線で殺傷事件がありましたね。加害者の方と歳があまり変わらなくて、悲しくなった。皆さんは、無差別殺人をどう思いますか。考えたことがありますか。殺人が良い悪いという話ではありません。言うまでもなく、人を殺してはいけない。では殺人はなぜ起こるのか、起こした人はどういう状況だったのか。
無差別に人を殺したいと思う心はどこからくるのか、過去の自分を振り返って考えるブログです。

ここで一つ質問をします。
みなさんは、虫と人の違いってなんだかわかりますか。
ちょっとこれだとわかりにくいね。言い直すよ。
「虫を殺すのと人を殺すのってどう違うの」。
今読んでくれているあなたは、この質問にすぐ答えを出してくれますか。納得できる理由を。

さて、解答はもう少しあとにして、ここから真面目に物騒な話をしよう。

私は過去に、無差別殺人の犯人が言うように、「誰でもいいから人を殺したい」と思ってしまったことがある。あのときの私には何もなかった。精神障害になりかけた心を落ち着かせるため、安静にしていた。学校と家の往復とたまにバイトに行くくらいのことしかしていなかった。確かに今までの心の傷は治る方向だったが、あまりに暇で空虚過ぎたのかも知れない。多分何かすがるものがほしかったんだと思う。

心が闇に傾いたきっかけは、19人が死亡し26人が重軽傷を負ったあの「やまゆり園」の事件だ。あの事件をTVで見た私は、「どうやったらそんなにたくさんの人を殺せるんだろう」と思ってしまったのだ(ここから、通り魔や多数の死傷者が出た事件の報道についてももう少し考えてほしいと思う。かつての加害者は、メディアを通して勝手に啓示を受け、類似した犯罪を起こしてしまう場合が少なからずあった)。

そこからの私はとらわれたように、どうやったら捕まらずに人をたくさん殺せるか、と考えていた。私はいつか人を殺さなきゃいけないんだろう、と悲嘆に暮れた。
電車の中や信号待ちで、目の前の知らない人に刃物を突き立てる想像をした。学校に行く途中で、手を血で真っ赤に染める様を幻視したことを覚えている。そのとき私が思いついたのが、この「虫と人」の質問だった。

あのときの私は虫と人は何も違わないと思っていたし、人を殺すことに罪悪感など想起できなかった。「虫を殺しても罪にならないなら、人を殺してもいいじゃない」と言いたかったのだろう。
犯罪心理学の本を読んでは投げ出し、シリアルキラーサイコパスの本を読んでは、自分の掌が赤く染まっているのではと不安になって、何度も自分の掌を見た。そんなことをしているうちに、今までどんなに精神的に辛くても取れていた睡眠が、悪夢に侵食されるようになった。悪夢はどれもバリエーションがあるものの、だいたい人を殺す夢か何かから逃げる夢だった。怖かったし苦しかった。リアルすぎる夢の後、人を刺した感触が手に残っていたときもあった。5日連続悪夢で飛び起きたこともある。それも縁起が悪いことに、ある年の元旦からの5日間だった。あのときだけはさすがに、眠りにつくのを怖いと思った。

でも、私はとある違和感を覚えていた。
おかしいと思わないか?人を殺すことを望んでいるのなら、人を殺す夢は充足する願望夢になるはずなのだ。なのに、私はいつも汗と涙と共に飛び起きている。

これはどうも気にかかる。もしかしたら、私は本当のところ人を殺したくなんてないんじゃないか。
そう思った。そう思うようになってすぐ、偶然外に出る必要がある趣味ができて(このとき改めて趣味の大切さを知った)、少しずつ人殺しについて考える時間が減った。少しずつ悪夢も減った。
結果私は罪を犯すことも、手を血で汚すこともなく、日常生活に戻ってくることができた。今のところ、人を殺したいと思うこともなくなった。このあたりは本当に(彼らは私をこういう人間だと知らないけれど)私を大事にしてくれる仲間や家族がいたからだとも思った。

最近になって、やっと全てにおいて健全な生活ができるようになった。心に余裕が出来てきて、ようやく書籍を読んだりニュースを見たりして、今まで起きた様々な事件、そしてあのときの私自身と、健全に向き合うことができるようになった。自分だからこそ向き合いたいと思ったし、自分のようなごく少ない人間しか向き合えないと思った。というか、どの事件を見ても、どれも切実に心に迫ってくる。他人事でないのだ。それも被害者側ではなく、加害者側として。私もああなったかもしれない、あるいはあのときの私を解消しない限り、ああなる可能性がゼロではないのだ。
大抵の人は、このような事件を知ったとき、気持ち悪い、怖い、ありえない、ですませてしまう。多分、正常に生きていく上で正しい反応なのだと思う。だから、考えることができる人が考えるしかないのだ。私は、考えたいと思う。いや、考えなければならない。私は今のところ無実だし無罪だけれど、無責任ではいられない。

ああそうだ、質問の答えを忘れそうになっていた。自分なりの答えは「社会」だ。
私も、読んでいるあなたも、間違いなく人の社会に生きている。虫の社会に生きているわけじゃない。
人の社会で人として扱われるためには、同じように他人のことを人として扱わなければならないのだ。
本当は、あの子が黙って床を指さしたように、言うまでもないことだ(大好きな小説の1シーン)。当たり前のことだ。そうでなければ社会が成り立たない。だがしかし、場合によってはそれを見失い、不幸で悲惨な事件を起こしてしまう人がいる。こんなに悲しくて寂しくて切なくて腹立たしいことは他にない。

正直なことを言おう。
これを書いている今、少し心拍数が上がっている。手に汗をかく。目眩がする。防衛本能的なものだろうか、脳が思考を停止させようとするので、眠気も感じる。

実際のところ、まだ怖いのだ。あのときの自分に戻ってしまうのではないかと、心のどこかで恐れている。それに、いろんなひとに叩かれるのではという怖さもある。もちろんこの記事を誰も見ないという可能性も十分ある、というかそっちの方がよほど可能性もしては高いが、それでも怖い。

誤った角度で深淵を覗けば確実に落ちる。もしくは、長い間覗いていた姿勢に限界がくれば、下手すれば手を滑らせて落ちてしまう。
これも同じことだ。あまりに連続した時間考えていると、戻ってしまうのではという恐怖で心に負担がかかる。そうすれば体に影響し、それが心に返ってくる。悪循環だ。
そうならないように、私は少しずつ向き合うしかない。それも、心に余裕があるときしか向き合えないというのだから、相当亀足だ。ここの更新もまちまちになるだろう。ニュースも追いきれないかもしれない。
でも、私は考えるのをやめるつもりはないし、載せたい。少しでも多くの人に読んでほしいと思う。違うな、読んでほしいというよりは、いわゆる普通の人、一般の人たちの意見が聞きたい。人を無差別に殺したいと思わない人たちは、私達のような人間とどこが違うのか。どのへんが理解できないのか。私一人が考えるだけでは、何も進まない。両者の間にある溝を理解し、埋めていかなければいけない。その上、一般の人たちをこちら側に引き込むわけにはいかないのだから、私たちのような人がどうにか一般側に戻れるように動くしかない。

読んでいてわかると思うが、私は研究者ではない。日々をいっぱいいっぱいで過ごしている一般人だ。専門家から見ればおかしな点だらけかもしれない。でも、これからもっと関連書籍や論文を読んで、知識をつけて、専門家と同じ土俵とは言わずとも、同じ言葉で話ができるくらいにはなりたいと思っている。いや、思っているだけではどうにもならない。行動を起こすのは今ここからだ。まず1歩目が、この記事。とても難しいけど、ここから。


ああ、長かったね。長々と失礼しました。ここまでありがとう。あなたが、あなたの大切な人が幸せでありますように、心から祈っています。

悪夢ちゃんより